日清戦争を簡単に解説~原因・結果・条約・三国干渉

はじめに

今回は日清戦争を簡単に解説していきます。

日清戦争

原因は?

日清戦争の直接のきっかけは1894~1895年に朝鮮で起こった甲午農民戦争(東学党の乱)でした。

甲午農民戦争(東学党の乱)とは?

当時、朝鮮ではチェジェウという宗教家が、キリスト教を意味する西学に対して、儒教・仏教・道教が混合した東学という民衆宗教を創始し、窮乏した農民たちの心を掴んでいました。

1894年3月、東学の農民軍が増税反対や「斥倭斥洋(せきわせきよう)」という日本も西洋も排斥するというスローガンに蜂起し、朝鮮半島南西部の全羅道の全州を占領して首都・漢城に迫る勢いとなりました。

1894年の漢城府

この反乱に対して、朝鮮の事大党政府は清国に鎮圧のための派兵を要請します。日本政府も清国の出兵に対して派兵を決定、日本初の戦時大本営を設置し、清国に日清両国が共同で朝鮮の内政改革をすることを申し入れます

清国側の責任者・李鴻章は戦争回避を望んでいましたが、日本の計算通り、清国はこの提案を全面的に拒否したため、日本は清国との開戦に踏み切ることになります。

李鴻章

日清戦争の開始

7月20日、日本は朝鮮に対して駐留清国軍の撤退、朝清間の条約や規則の廃棄などの要求を盛り込んだ最後通牒を突き付けました。

そして、23日に漢城の王宮を攻撃して事大党を率いる閔氏一族を追放し、国王高宗の実父・大院君を政権に付けます。こうして朝鮮や遼東半島・満州最南部などを舞台にした日清戦争が始まりました。

大院君

結果は?

結果から言うと、日本は予想外の大勝利を収めました。

正式な宣戦布告は8月1日でしたが、日本海軍は7月25日、豊島沖で清国艦隊を奇襲しています。

両国の戦いは翌年2月まで約8か月続きましたが、近代装備を持つ日本軍は、平壌で清国陸軍の主力を破り、山東半島の威海衛を占領して北洋艦隊を降伏させるなど勝利を収めることになりました。台湾の譲与講和条件に入れることを考えていた伊藤博文首相は、台湾島西方の澎湖諸島に歩兵一個旅団を上陸させ、台湾島攻略のための前進基地としました。

条約は?

3月20日から下関で講和会議が開かれ、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が調印されました。

伊藤博文
陸奥宗光

条約の内容は、清国は日本に対して、朝鮮を独立国として認めること、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲すること、賠償金約2億テール(当時の日本の国家予算のほぼ3年分の金額)を払うこと、日本に最恵国待遇を与えること、沙市、重慶、蘇州・杭州の開市開港と揚子江航行権を与えることなどでした。

三国干渉

ところが調印直後、ロシアがフランス・ドイツとともに「東洋の平和のために」遼東半島を清国に返すように要求してきました。これが三国干渉です。

日本にはこれらの国を敵に回すだけの余力はなかったため、日本は要求を受け入れ、代わりに清国から3000万両の賠償金を得ることになりました。

このときの民衆のロシアに対する恨みが、日露戦争の呼び水となります。

参考文献

この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。

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政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。

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