目次
はじめに
今回は西南戦争を簡単に分かりやすく解説します。
西南戦争とは?
西南戦争とは?簡単に
西南戦争とは1877年2月に始まった、明治初期における最大で最後の士族の反乱です。
西南戦争の戦費は、西郷軍70万円に対して政府軍4156万円と圧倒的な差がありました。
徴兵制で集められ戦闘に不慣れな政府軍に対し、訓練を受け死を覚悟した西郷軍は個々の力では勝っていたものの、総兵力では政府軍に軍配が上がる結果となりました。
戦域は熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県に及び、熊本城の攻防戦、田原坂の戦いなど激戦を経て、9月24日、西郷は鹿児島の城山にこもったところを攻撃されて自刃し、西南戦争は終結します。
なぜ?原因は?
士族の不満
西南戦争をはじめとして、各地で起きていた氏族の反乱は大久保利通の独裁政権に対する不満や、封建時代への復帰を願う復古思想などその主張は様々でしたが、共通していたのは、帯刀禁止令によって士族に残された最後の特権が廃止されたことと、秩禄処分によって家禄がなくなり、収入が激減したことに対する反旗であったことが挙げられます。
西郷の下野、「士族王国」鹿児島
明治六年の政変で下野した西郷隆盛は鹿児島に帰郷していました。陰で天皇を操るような大久保や岩倉具視のやり方に対して腹は立てていたものの、この時点では反乱を起こす意志はなかったと考えられています。
鹿児島に戻った西郷に続く形で、鹿児島出身の軍人や文官ら数百人が辞職して帰郷していました。西郷はともに帰郷した不平士族を統率すること、県内の若者を教育することを目的に1874年に私学校を創設し、県内に136の分校ができるに至ります。鹿児島県は新政府に租税を納めず、私学校の関係者が鹿児島の地方行政を掌握するなど、士族王国の様相を呈し始めます。
西郷暗殺計画?
政府に対する反乱の機運が高まっていくなかで、危機感を抱いた大久保政権は1871年1月、鹿児島県弾薬庫から弾薬を大阪に搬送させようとしました。これを知った私学校党は鹿児島県各地にある火薬庫を襲撃して弾薬や武器類を奪取します。
また、大久保政権は鹿児島出身の警官20数名を密偵として送りこみます。彼らが私学校党に捕まり拷問された結果、西郷を暗殺する計画だったと自供しました。
これが真実であるかどうかは分かりませんが、私学校党は怒りに燃え、決起に反対していた西郷も、政府に尋問したいことがあるので旧兵士を率いて上京するという届けを鹿児島県に提出します。
1万6000人の将兵が鹿児島から熊本にかけて出発し、西郷軍と政府軍の戦いが始まることとなりました。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。