目次
はじめに
今回は岩倉使節団を簡単に解説します。
岩倉使節団を簡単に解説
メンバーは?
岩倉、木戸、大久保など錚々たるメンバー
岩倉使節団は右大臣・岩倉具視を特命全権大使とし、福使として参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳といった政府の中心人物が参加していました。
彼らに加え、国際的な知識を持つ旧幕臣や有能な人材が起用され、随行者や留学生も含めると100名を超える大型使節団です。
女子学生
使節団に同行した留学生の中には5人の少女がいました。
のちに、陸軍卿・大山巌と結婚して「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれる山川捨松(12歳)、女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立し、女子教育の発展に貢献した津田梅子(8歳)、海軍大将・瓜生外吉と結婚し、官立の東京音楽大学(現在の東京藝術大学)と東京女子高等師範学校(現在のお茶の水大学)で音楽教育に尽力した永井繁子(10歳)と吉益亮子(15歳)、上田悌子(15歳)です。
目的は?
初期明治政府の大きな外交課題の一つに、欧米諸国のの不平等条約の改正がありました。そこで、1871年11月、条約改正の予備交渉と、欧米各国の国情視察を目的に、岩倉使節団が派遣されることになりました。
結果は?
不平等条約の改正交渉は…
まず、ワシントンで不平等条約の改正の予備交渉に入りました。しかし、法体系の未整備など、日本の近代国家としての諸制度がまだ確立されておらず、副使の大久保が全権委任状をとりに帰国するといった不手際もあり、国力の差の前に挫折することになりました。
文化の吸収
そのため、使節団はもっぱら、欧米の制度や文物を視察することになります。
政治、経済、産業、軍事、社会、文化、思想、宗教などあらゆる分野にわたって制度・文物を詳細に見聞し、立憲政治の発展、産業の振興、自主の精神の実現などに裏打ちされた欧米諸国の充実した国力と、日本の立ち後れを痛感することになります。
ビスマルクとの会見
使節団は多くの人物と会見しましたが、なかでも鉄血宰相・ビスマルクとの会見には強烈な印象を受けたと言われています。
ドイツ皇帝・ウィルヘルム一世に謁見した際、ビスマルクは一行を会食に招き、プロイセンがいかにして欧州列強の弱肉強食のなか発展したかについて熱弁を振るいました。一同は感銘を受け、特に大久保は強い影響を受けたと言われています。
『特命全権大使米欧回覧実記』
岩倉使節団が見聞きし、感じたことは久米邦武編の『特命全権大使米欧回覧実記』に記されています。
西欧に大きな刺激を受けて帰国した大久保らは、その後「富国強兵」と「殖産興業」の重要性を再認識し、欧米列強を目標とする近代化政策を急速に推し進めていくことになります。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。