目次
はじめに
今回は秩父事件を簡単に分かりやすく解説していきます。
秩父事件をわかりやすく解説
いつ?場所は?
秩父事件とは、埼玉県秩父郡で数千人の農民が蜂起した事件で、1884年11月1日、板垣退助が自由民権運動のなか開設した自由党の解党が決定された3日後に起きることになります。
この事件は幕末にみられた農民一揆や打ちこわしではなく、国家を相手にした蜂起でした。自由党の革命的思想の下、自分たちの行動こそ正義であり国家の方に不義があると考えていました。
農民が勧誘される際も自由党への勧誘というかたちをとることが多く、そういう意味では秩父事件は自由民権運動の最後の大規模な戦いでした。
原因は?
背景に農家の負債問題
秩父事件の背景には農家の負債問題が挙げられます。
多くの負債を抱えた農民たちは債権者に負債の軽減や据え置きなどを嘆願しましたが聞き入れられず、次第に尖鋭化していき、ついには騒擾事件(乱闘事件)に発展。これを負債農民騒擾と呼びますが、1883年から1885年の間に記録が残されているだけでも全国で64件の負債農民騒擾が起きたと言われています。
秩父も例に漏れず…
秩父地方も状況は同じでした。
秩父地方は江戸時代以来、養蚕や製糸業が盛んで、日本が幕末に開港してから茶とともに生糸が主要な輸出品となったことで活況を呈していました。
ところが、1881年に始まる松方デフレによって生糸の価格が急落し、蚕糸業で生計を立ててきた秩父地方の農民は困窮し始め、土地を抵当にして高利貸しに多額の借金を負う者が続出しました。
運動の開始
秩父の農民たちは1883年の末頃から、負債の軽減や返済猶予を求める運動を始めました。集団となって高利貸しと交渉したり役所に請願に行きましたが埒があきませんでした。
こうした経緯もあり、指導者たちはついに武力蜂起の方針に傾き、負債10カ年据え置き、40カ年年賦払いを高利貸しに要求、学校費節約のため小学校の3カ年休校を県庁に要求、雑収税の減免を内務省に要求、村費の削減を村の役人に要求するといったことを決定しました。
最後にもう一度役所に請願を行いましたが受け入れられなかったため、計画通り11月1日に下吉田村の椋神社に約千名が集結、軍隊式の組織が編成されました。
猟銃、刀剣、竹槍などで武装し、「新政厚徳」の旗を立て、大宮合の郡役所を占拠して、「革命軍本部の看板」をかけました。
各村の高利貸しを襲撃しながら移動し、憲兵隊や鎮台兵と各所で交戦、10日後、ついに八ヶ岳の山麓で壊滅しました。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。