はじめに
今回は倭寇について簡単に解説していきます。
倭寇とは?
何人?
前期倭寇→日本人
「倭寇」という言葉が初めて文献に登場するのは、朝鮮(李朝)が編纂した歴史書『高麗史』です。
ただ、倭寇という固有名詞がもともとあったわけではなく、倭人(日本人)の海賊的行為が「倭寇」として定着していったと考えられています。
この倭人(日本人)を中心とした海賊は前期倭寇と呼ばれます。南北朝時代から室町時代の初めに全盛期を迎えました。
前期倭寇で大規模なものは500隻にもおよぶ船団で、朝鮮半島や中国大陸の沿岸を襲い恐れられていました。
李成桂による朝鮮の建国
倭寇は朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり、米や大豆などの食料を奪ったりするなどしたため、倭寇に悩まされた高麗は日本使者を送って倭寇の禁止を求めましたが、日本は南北朝の内乱の最中だったため、鎮圧できませんでした。
1392年、日本では足利義満が南北朝を合体、朝鮮半島では武将・李成桂が高麗を倒し、朝鮮(李朝)を建国しました。
朝鮮は通行と倭寇の禁止を日本に求め、義満もこれに応じたので、両国間に国交が開かれ、倭寇の動きは沈静化していきました。
その後も倭寇への厳しい対応と帰化などの懐柔策を織り交ぜることで、前期倭寇は衰退していきました。
後期倭寇→中国人
前期倭寇に対し、中国人が中心となった海賊は後期倭寇と呼ばれています。この後期倭寇は室町時代末期(戦国時代)に活動しました。
室町幕府の衰退とともに、勘合貿易(日明貿易)の実権が堺商人と結んだ細川氏や、博多商人と結んだ大内氏の手に移りましたが、16世紀半ば大内氏の滅亡とともに勘合貿易も断絶、倭寇の動きが活発になりました。
当時の明は民間での海上貿易を禁止する海禁政策をとっていたため、中国東南部海岸沿いの人々は海賊行為を行いました。
倭寇の10人のうち、9人までが中国人だったともいわれ、倭寇とは呼ばれていましたが実質的には中国人などの密貿易者も多かった状態でした。
日本の銀と明の生糸との交易を行うとともに、海賊として広い地域にわたって活動し、明の滅亡の一因になるほどでした。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。