プロイセンの名君フリードリヒ2世〜やっと開けたコンサート

はじめに

今回はベルリン旧国立美術館所蔵、アドルフ・メンツェルの『フリードリヒ大王のフルートコンサート』について解説しています。

旧国立美術館、Wikipediaより引用

参考文献

この記事は『名画で読み解く世界史』を参考にしています。

美術、世界史に関する知識をセットで学べるオススメの本です。世界史に興味がある方はもちろん、旅行好きの方にも読んでほしい一冊です。

フリードリヒ2世とは?

フリードヒリ2世とは?

フリードリヒ2世(大王)とはプロイセンの君主。

啓蒙思想家ヴォルテールらとの親交もある啓蒙君主としても知られ、「君主は国家の第一の下僕」と唱えて王権の強化を正当化しました。

その一方で対外的には領土拡大の機会を狙い、オーストリア継承戦争で鉄工業の盛んなシュレジエンを獲得しました。

7年戦争の勃発とフリードリヒ2世の活躍

1756年、このシュレジエンをオーストリアがフランス、スペイン、ロシアを味方につけて下さい奪還しようと画策したため、7年戦争が勃発します。

圧倒的不利の状況下、フリードヒリ2世は先制攻撃を仕掛けて連合軍を驚かせるなど、以後も軍事の才能を発揮して善戦。

すると1726年にロシアが脱落。さらにフランスも海外植民地でイギリスに敗れたため、戦局は互角となり、ついにフリードリヒ2世はシュレジエン領有を確実なものとしました。

フリードリヒ2世は1786年に没しますが、プロイセンはドイツの諸侯のなかでもハプスブルク家に並ぶ存在となりました。

『フリードリヒ大王のフルートコンサート』解説

父親との確執

軍人皇帝と呼ばれた父から後継者として期待されたフリードリヒ2世。しかし、彼は若い頃からフランス文化に心酔し、文学や音楽を好む人物でした。

そんな息子にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、楽器を破壊し、帝王学を教え込みます。そのスパルタぶりは激しく、処刑まで考えていた程。当の息子、フリードリヒ2世は父親の抑圧から逃れるため国外脱出まで敢行する有り様。

フリードリヒ1世

その反動で、即位後のフリードリヒ2世は音楽を趣味とし、父親の死後、ようやく音楽を気がねなく楽しむことができるようになりました。

『フリードリヒ大王のコンサート』解説

ポツダムのサン・スーシ宮殿の音楽堂行われたフリードリヒ2世の演奏会を描いた作品。

8人の招待客が描かれていま。心から楽しんでいる客もいれば退屈して天井を見上げている客もいます。ソファに座って少し首を傾けているのは大王の姉。

『フリードリヒ大王のコンサート』(アドルフ・フォン・メンツェル、1852年、ベルリン旧国立美術館所蔵)

しかし、ここにはいなければ行けない人物がいません。そう、王妃です。

これは彼が父親が決めた結婚を嫌い、王妃をサン・スーシ宮殿に入れたことが無かったからです(そこまでしなくても…)。父親との確執がここにも陰を落としています。

ただ、画面全体の雰囲気は明るく、フリードリヒ2世も楽しそうにフルートを吹いています。招待客の表情も多様でユーモアを感じさせます。この絵を描いたアドルフ・メンツェルも、大王に対して温かな眼差しを送っていたのではないでしょうか。

アドルフ・フォン・メンツェルとは?

顔は怖いけど優しい人…のはず

アドルフ・フォン・メンツェルとは?

アドルフ・フリードリヒ・エルトマン・フォン・メンツェルは、ドイツの画家、挿絵画家、版画家です。

フランスの芸術アカデミー、そしてイギリスのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員。画家として初めて黒鷲勲章を贈られ、貴族に叙せられました。

またプール・ル・メリット科学芸術勲章を受賞し、ベルリン大学名誉博士号を授与され、ブレスラウ名誉市民およびベルリン名誉市民に選ばれました。1905年にベルリンで死去。

主な作品

『パリの平日』
『舞踏会の晩餐』
『ケーニヒスベルクでのヴィルヘルム1世の戴冠式』