足利義満は何をした人?〜征夷大将軍、花の御所、花開く北山文化、明との国交

はじめに

今回は足利義満を解説していきます。

足利義満は何をした人?

征夷大将軍・花の御所

足利義満の幼少期は、南朝方の攻撃や幕府内の争いが激しく、4歳の義満さえ播磨守護の赤松則祐の白幡城に難を逃れなければなりませんでした。

わすが9歳で家督を譲られ、翌年には征夷大将軍、20歳になると室町に「花の御所」を建てて移住します。

将軍権力の絶対化・南北朝の動乱終結

将軍の権力を絶対化するため守護大名の勢力削減に着手します。

対象となったのは美濃の実力者・土岐氏、11カ国の守護職を有した山名氏、勘合貿易の中心人物・大内氏でした。

さらに、祖父・足利尊氏以来の南北朝の動乱を終結させ、南朝の後亀山天皇に、神器を北朝の後小松天皇へ譲り渡させました。

花開く北山文化

寺社勢力に対しては格式高い寺を定める五山制度を整備し、春屋妙葩を僧録という僧侶の人事を司る役職に任じて禅宗教団を管理するとともに、経済的な厚い保護によって五山文化を盛んにしました。

朝廷においては、1382年に左大臣になると、相国寺を建造し、1383年には皇族を表す称号「准三后」の宣下を受けました。

1395年には太政大臣を辞して出家して以後、北山殿を造営し、舎利殿(釈迦の遺骨を納めて供養した建物)として金閣を建てます。

義満は北山殿で政務をとり、中国(明)の勅使をむかえ、武家文化と公家文化の融合した北山文化を花開かせました。

中国との国交再開

南北朝の合体後の1401年、元寇以来中断していた中国との国交が正式に再開されました。

1402年の明使の詔書には「日本国王源道義」と記されております、義満自身「日本国王臣源」として返書を送り、倭寇を鎮圧して明の冊封を受けました。

返書の署名に「臣」と入っている通り、冊封とは中国の天子が周辺諸国の臣下に爵位を授け、名目的な君臣関係を築くことを指します。

明の従属国となっても、明との貿易の利益を義満は優先しました。特に輸入の大部分を占めた明銭は、当時貨幣を鋳造していなかった日本において、足利将軍が通貨発行権を握っていたと言えます。