はじめに
今回は中国史上に名を残す暴君、煬帝を紹介していきたいと思います。
煬帝とは何者?
読み方は?
煬帝は「ようだい」と読みます
暴君の誕生
煬帝は中国史上稀に見る暴君としてして知られています。
煬帝は隋の初代皇帝である文帝の次男として569年に生まれ、604年の文帝の死後、煬帝が皇帝となります。
皇太子時代の煬帝は質素な生活を送っていたのですが、皇帝になるとすぐに贅沢を好む生活に急変、女色に溺れ、朝廷に歯向かう人間は次々に残忍な方法で処刑します。
煬帝の暴君エピソードのはじまりです。
大運河の建設
煬帝の悪名エピソードとしては大運河の建設も挙げられます。
煬帝は605年通済渠(つうさいきょ)、608年永済渠(えいさちきょ)を開通させたのですが、その長さは2500kmに及ぶものであり、この大運河を短期間で建設するために女性を含めて100万人もの人々から動員されたと言われています。人々は重労働を強いられ、日々の暮らしも苦しくなりました。
ただ、この大運河の建設はその後の中国経済の発展に貢献したものであり、重労働はあったものの経済の点ではポジティブに捉えるべきだという声もあります。
遠征
幾度となく行われた帝国拡張も彼の暴君評価に繋がっています。
高句麗遠征は3度行われたものの大きな成果は挙げられず、兵士は疲労してしまいました。
ただ、この遠征も、中国の他の皇帝も行っていることのため、先の大運河の建設と合わせて煬帝の暴君としての評価は事実に反するというという声があることも確かです。
煬帝と小野妹子
日本史を勉強した際に、小野妹子が遣隋使として派遣され、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれた手紙を読んだ隋の皇帝が激怒したというエピソードは聞いたことがありませんか?
実はこの隋の皇帝というのが煬帝。歴史に詳しくない人にも馴染み深い人物なんですね。
煬帝の最期
煬帝は人民を酷使したため、最後は近衛兵に暗殺されたと言われています。
参考文献
この記事は『人物で読み解く世界史 365人』(佐藤優監修)を参考にしています。
人にフォーカスを当てて世界史を勉強できる本。歴史にそこまで詳しくない人でも分かりやすく、集中力を持続して読める本です。