はじめに
今回は廃藩置県を簡単に解説していきたいと思います。
廃藩置県とは?簡単に解説
いつ?
1871年です。
1871年7月14日、政府は「廃藩置県の詔」を発して、一挙に藩を廃止して県を設置しました。同時に、これまでの知藩事を罷免して東京に住まわせ、新たな政府の管理を派遣して県知事(のちに県令と改称し、1866年、再び知事と改称)に任命しました。
当初300以上あった県は同年11月に大幅に統合整理されて、3府72県になりました。幕藩体制は完全に解体され、全国は政府の直接統治のもとに置かれることになりました。
誰が決めた?
長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、肥前の大隈重信らが密かに計画を進めて1871年、「廃藩置県の詔」が発せられました。
目的は?
欧米列強の圧力に対抗できる近代国家を作るために、明治政府は天皇を中心とする中央集権体制の国歌を樹立したかったからです。
戊辰戦争に勝利した新政府は中央集権化を進めるため、藩による封建体制を打破したいと考えました。そこで手始めに行われたのが「版籍奉還」です。
版籍奉還により中央集権化が一応は強化されたものの、実質的な効果が上がらなかったため、その実を上げるために廃藩置県が行われることになります。
版籍奉還とは?誰が?
「版籍奉還」とは、諸藩主が領地(版)と領民(籍)を天皇に返上することです。
大久保利通と木戸孝允を中心に実行され、1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の藩主が揃って版籍奉還を申し出、諸藩主もこれにならいました。
新政府は申し出を認め、旧藩主を改めて知藩事に任じ、石高に変えてその10分の1を家禄として支給、藩政にあたらせました。
これにより、従来の藩主は形式的には中央の行政官となり、中央集権体制が一応は強化されたものの、実質的な効果はさほど上がらず、廃藩置県を出すに至ります。
藩の反応は?
廃藩置県という大改革に対して諸藩の抵抗はほとんどなかったと言われています。
その主な理由としては戊辰戦争によって多くの藩が負債を抱えており、財政的に厳しい状況下で政府に対抗する経済的実力がなかったということ、そして、藩の側でも欧米列強と肩を並べるためには中央集権体制の強化が必要だと感じていたことなどが挙げられます。福井藩の藩校で物理や化学を教えていたアメリカ人教師グリフィスが『明治日本体験記』に、藩士たちが東京からやってきた使者を大きな動揺と興奮を持って迎い入れたことを記しています。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。