平将門の乱を簡単に分かりやすく〜いつ?どこ?なぜ?

はじめに

今回は平将門の乱を簡単に分かりやすく解説していきます。

平将門の乱を簡単に分かりやすく

平将門とは?

平将門は桓武天皇の末裔です。

桓武天皇の曾孫である高望王が臣籍に降下し「平」の姓に受けたときから始まる、桓武平氏の出です。

なぜ?

乱のきっかけは平氏一族の内紛でした。

将門は鎮守府将軍だった父の亡き後、父の兄弟らと争い、伯父国香を殺害します(原因は「女性をめぐるトラブル」や「父の遺領をめぐるトラブル」といった説があります)。

ところが、将門の動きは次第に性格を変え始めます。

いつ?どこ?

939年、まずは常陸の国府を焼き払い、略奪。

これを皮切りに、下野・上野国府を落とし、続けて相模・上総・下総・安房と坂東諸国を手中に収め、現在の茨城県から神奈川県、伊豆に至るまでの関東の大半を支配するようになりました。

上野国府を攻略したときには自身を「新皇」と名乗り、「内裏」を造営し、攻め取った関東諸国の国守を独自に任命するなど、明らかに関東地方に独立王国を作ろうとするムーブを見せます。

これをもって将門は朝敵とみなされ、朝廷は下野の武士・藤原秀郷を押領使(乱などの鎮圧のために臨時に任命される官)に任命します。

将門は内紛で殺した伯父である国香の子・平貞盛と秀郷によって討たれ、独立政権はわずか2ヶ月で幕切れとなりました。

将門の伝説

茨城県坂東市にある将門像

中央政府にとっては逆賊だった将門も地元では英雄とみなされていました。

将門は農民を仲間や一族と「伴類」と呼んで庇護する面もありました。律令制下で苦しめられていた農民からすると、将門は国家権力に抗い一時的とはいえ律令体制から開放してくれた救世主でした。

都に持ち込まれ、さらされた将門の首が、3ヶ月生き続けたとか「首をつなげて再戦したい」と叫んだとか、東国へ飛んでいったとかさまざまな伝説がのこっています。

参考文献

この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。

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