はじめに
今回は藤原道長の道長が何をしたのか、そして死因を紹介していきます。
藤原道長
何をした人?
一帝ニ后の例を作る
道長は、娘を天皇に入内させることに腐心しました。
まず、姉である詮子(せんし)の子である一条天皇の中宮に長女の彰子を立てました。一条天皇にはすでに定子という皇后がいたのですが、道長は半ば強引に彰子を嫁がせ、一帝ニ后の最初の例を作ります。
摂政となる
続いて三条天皇が即位すると、次女の妍子(けんし)をその中宮にしました。彰子の産んだ敦成親王(あつひらしんのう)を早く即位させたかった道長は、三条天皇に譲位を迫って、幼少の敦成親王を後一条天皇として即位させました。
後一条天皇は道長からすると孫にあたるので、道長は外祖父として摂政になり政治の実権を握りました。
「この世をば」歌を詠む
続いて後一条天皇に娘の威子を入内させたことで、彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子が皇后となり、娘3人が同時に后として並び立つという、権威の絶頂がなります。
このときの宴で詠まれたのが「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」の歌です。欠けたところのない満月の如く、関白の地位につくことはなかったものの、摂関政治の全盛期を築きます。
『大鏡』で描かれる道長
摂関政治の歴史を語る歴史物語『大鏡』では、道長を権力に媚びず、強い意志と行動力を持った人物として描いています。
花山天皇の発案で肝試しを行った際に、道長は大内裏の正殿である大極殿まで行った証拠として、高御座の南面の柱を削り取って持ち帰ったというエピソードなどは、天皇を恐れる豪胆さ(高御座は天皇が座る神聖な玉座)を伝えています。
法成寺造営
当時の貴族の流行だった浄土教にも傾倒し、「御堂関白」の異称の由来ともなった法成寺を造営しました。『栄花物語』には「極楽浄土もかくや」というような金色の阿弥陀像を本尊とする阿弥陀堂やその金堂の荘厳の様子が詳しく描かれています。
死因は?
道長自身の日記、『御堂関白記』の記述からは、晩年道長は糖尿病とその合併症で苦しんでいたようで、敗血病で亡くなったと考えられています。
法成寺阿弥陀堂にて西方を向いて臨終したと言われています。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。