江華島事件を簡単に分かりやすく解説〜江華島事件とは?なぜ?日清修好条規とは?

はじめに

今回は江華島事件を分かりやすく簡単に解説します。

江華島事件を簡単に分かりやすく解説

江華島事件とは?

日本は1875年、航路研究という名目で軍艦・雲揚に朝鮮半島西岸を巡らせました。

首都ソウルに近い漢江河口の江華島沖で、飲料水を求めてボートから上陸しようとしたところを砲撃されます。

日本側もさっそく雲揚艦砲で応戦、江華島の対岸にある永宗島に上陸して大砲37門などを奪い、さらには朝鮮人35人を虐殺しました。

これが江華島事件です。

なぜ?

征韓論の盛り上がり

江華島事件の背景には征韓論の盛り上がりがありました。征韓論とは簡潔に述べると、「朝鮮に対して武力で開国させ勢力を伸ばそう」という考えです。

ではなぜ征韓論が盛り上がったのでしょうか?

江戸時代、徳川幕府と朝鮮政府との間では朝鮮通信使が派遣されるなど、友好関係が保たれていました。

しかし、1868年(明治元年)、維新政府が朝鮮に「大政一新」を知らせる外交文書「書契」を送ったところ、その中で使われていた「皇」や「勅」の文字は朝鮮の宗主国である清の皇帝だけが使える文字で前例に反するとして、朝鮮側が受け取りを拒否。

日本側は、外交文書を受け取らないのは無礼であるとして、鎖国外交政策をとる朝鮮を武力で開国させる方針を立てるに至ったのでした。

征韓論を巡って〜西郷隆盛

岩倉使節団が外遊中の留守政府において西郷隆盛の朝鮮派遣まで決まりましたが、使節団の帰国後には政変が起き、西郷ら征韓派が総下野する事態になりました。

しかし、同じ頃鎖国を続けていた朝鮮王朝が、大院君政権から閔氏にかわり対外政策を和らげ始めていました。この動向を探りながら、1874から交渉を始めますが、進展はせず。交渉にあたった外務省の森山茂は軍艦による圧力を要請。

閔氏

1875年に軍艦・雲揚が朝鮮半島西岸を巡り、江華島事件が起きるに至りました。

日清修好条規

江華島事件を口実に、欧米列強に先がけて日本政府が朝鮮政府に開国をせまります。

儀仗兵200名、砲兵45名に最新兵器ガトリング砲4門を上陸させるなど、日本が黒船に対して感じたような近代的軍事力を見せつける形になりました。全権正使は黒田清隆、副使は井上馨でした。

横浜への黒船来航
黒田清隆
井上馨

その結果、日本が一方的な不平等を強いる日清修好条規が調印される形となりました。その内容としては、釜山・仁川・元山の開港、日本側の領事裁判権、日本在外交館の設置、日本諸貨幣の流通、輸出入品の関税免除などが決められました。

また、朝鮮は自主独立国を宣言し、清の宗主権を否定しました。清は既にイギリスと対立しており、さらなる日本との争いを避けるため、清の李鴻章から容認指示勧告があったと考えられます。

参考文献

この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。

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