はじめに
今回は世界史における「キオス島の虐殺」を。ルーブル美術館所蔵のドラクロワの絵画と共に解説していきます。
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参考文献
この記事は『名画で読み解く世界史』を参考にしています。
美術、世界史に関する知識をセットで学べるオススメの本です。世界史に興味がある方はもちろん、旅行好きの方にも読んでほしい一冊です。
キオス島の虐殺とは?
ウィーン体制VS革命運動
ナポレオン戦争の混乱を経てヨーロッパでは新しい国際秩序を確立するために1814~15年にウィーン会議が開かれます。
この会議ではフランス革命以前の各王朝の支配体制と領土を正当とする正統主義が原則とされ、各地で高揚していた自由主義や国民主義には抑圧的でした。
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当然、ヨーロッパ各地で革命運動が起こります。有名なのはドイツのブルシェンシャフト、イタリアのカルボナリ。
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ただ、こうした革命を志す1820年代までの運動はウィーン体制の強固な結束によって鎮圧されていきます。
キオス島の虐殺
こうしたナショナリズム高揚の波はギリシャにも波及します。15世紀後半からオスマン帝国に支配されていたギリシャで独立を目指す武力闘争が展開されます。
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しかし、オスマン帝国も黙ってはいません。エジプトの協力を得て苛烈な弾圧を行います。
1822年、エーゲ海の頭部に位置するキオス島がギリシャ独立運動に対する報復攻撃にさらされます。島民2万2000人が虐殺され、さらにその倍以上の男女が奴隷として連れ去られるという悲劇が起こりました。
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尚、ギリシャは反オスマン帝国で思惑の一致した西洋諸国の苛烈な援助を受け、この独立戦争によって独立を果たします。
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『キオス島の虐殺』解説
『キオス島の虐殺』解説
ギリシャ軍に参加していたフランス人士官ヴァ―ティエ大佐への取材をもとに制作され、情感溢れるロマン派風の表現で世論を新ギリシャへと突き動かしたドラクロワの作品。
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画面右下で力尽きた母親に乳をねだる子供の姿が痛ましい。
自由を奪われ死への恐怖を前に悲しみ、絶望し、あるいは茫然自失となったり、秋話目の表情を浮かべるギリシャ人と、勝ち誇るオスマン兵。対照的な登場人物が鮮烈な色彩で描かれています。
世論をギリシャ独立支持へと突き動かした本作品ですが、発表時はあまりのリアリティに評判が芳しくなく、「絵画の虐殺」とも揶揄されてしまったそうです。