はじめに
今回は東京国立博物館所蔵、長谷川等伯の『松林図屏風』について解説していきます。
オススメ
この記事は以下の本、文献を参考にしています。
日本美術に興味を持った方、展覧会などに行ってもっと詳しく知りたくなった方は是非ご覧になってください。
『松林図屏風』解説
はかなさと粗さ
朝霧の中に浮かび上がる松林のシルエット。遠くには雪をかぶった山があり、冬の早朝であることが分かります。まもなく日が昇り、霧が晴れたら消えてしまうであろう一瞬の空気感。その無常ともいえる世界を切り取ったのが本作品です。
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描かれているのは松だけなのに深い霧を感じさせる作品。余白の美が効果的に用いられています。
![](http://gemeinwohl.jp/wp-content/uploads/2019/05/1920px-Hasegawa_Tohaku_-_Pine_Trees_Shōrin-zu_byōbu_-_right_hand_screen-1-1024x479.jpg)
この作品を間近で眺めると等伯が極めて粗い筆致で松の葉や幹を描いていることが分かります。その一方で、粗い筆致なのに遠くから眺めると写実的なまでの幽玄な光景が目の前に現れ、それが等伯の内部とも一致している。それがこの屏風の魅力です。
等伯と永徳
等伯は33歳のときに妻と幼い息子、久蔵を連れて上京します。以来、四人の息子や門人とともに長谷川派を旗揚げし、千利休の知古を得て、利休ゆかりの大徳寺の山門の天井画と柱絵などを手がけ、有名絵師の仲間入りを果たします。
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しかし、当時は永徳率いる狩野派の全盛期。名声を増し、秀吉の耳にも入るようになった等伯を永徳は脅威に感じ、あらゆる手を使って等伯の邪魔をしたと言われています(永徳については以下の記事を参照↓)。
チャンス到来
ところが、その永徳が47歳の若さで突然死。等伯にもついにチャンスが回ってきます。秀吉から祥雲寺の障壁画を描くように依頼されたのです。さらに、永徳の息子、狩野光信にあまり才能がなかった一方で、等伯の息子、久蔵は父親も認める際の持ち主。狩野派に取って代わり、天下画工の長をとなる千載一遇の機会がやってきたのです。
![](http://gemeinwohl.jp/wp-content/uploads/2019/05/800px-Shou-un-in.jpg)
悲劇の中で
しかし、そうは問屋が卸しませんでした。障壁画の感性を目前にして息子の久蔵が26歳の若さで急死してしまいます。死因ははっきりとは分かっていませんが、狩野派による暗殺説や跡目争いを避けて自害したという説が残っています。
二度の火災にあったものの障壁画の残りは今でも見ることができます。そうはいっても、久蔵に跡を継がせ、長谷川派の流れを確たるものにしようとしていた等伯にとって最愛の息子を失った悲しみはどれ程のものだったでしょう。
そんな失意の中で描かれたのが『松林図屏風』でした。この作品は発注主が不明ですが、もしかしたら等伯が自らの悲しみを癒すために作ったのかもしれません。もしそうだとしたら粗い筆致にも納得がいきます。
![](http://gemeinwohl.jp/wp-content/uploads/2019/05/Érable_entouré_dherbes_dautomne_détail_par_Hasegawa_Tōhaku-1024x323.jpg)