目次
はじめに
今回は松方財政を分かりやすく簡単に解説していきます。
松方財政とは?分かりやすく解説
松方財政とは?
大隈から松方へ
明治十四年の政変で大隈が政府から追放されました。
そこで、財政においても大きな転換が起きます。それが松方大隈による積極財政から、松方による緊縮財政へのシフトです。
大隈の積極財政
殖産興業に力を入れる大久保利通のもとで、大隈は積極財政を進めていましたが、1877年起きた西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が発行されると、大規模なインフレーションが発生しました。
大蔵卿のおおくまは、外積を発行して得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると考えましたが、次官に当たる大蔵大輔の松方は、インフレは明治維新以来取り続けてきた積極財政が原因なのだから、不換紙幣を回収し、正貨(当時は銀貨)を蓄積することが最優先であると主張しました。
この松方の考え方は大隈の財政政策を根底から否定するものであり、大隈を怒らせました。そんななか起きたのが明治十四年の政変。大隈は政府を追われ、大蔵卿に任命された松方が財政再建に取り組むことになります。
松方の緊縮財政
松方は薩摩出身ですが、大久保以来薩摩グループの看板であった積極財政には否定的でした。
ただ、勧業政策(産業を推奨する政策)自体に消極的だったわけではなく、兌換制度を確立し、海外為替資金を供給することが勧業政策につながり、そのためには徹底的な緊縮財政を進める必要があるという主張でした。
こういった考えの背景には、松方が第三回パリ万国博覧会でフランス蔵相レオン・セイから得た、金本位を採用すること、そして中央銀行を設立するという助言がありました。
松方はこの助言に従って紙幣整理を行い、外積に依存せず、中央銀行の主導により金融システムを整備し、十分な量の金を確保できなかったため、まずは銀本位制を導入することで、近代的財政・金融制度を確立しようとしました。
結果は?
紙幣整理がデフレーションを招くことは知られていましたが、一連の政策は深刻なデフレを引き起こすことになりました。
中下層農民が没落し、自作農が小作に転落したり、多くの小作農が一家を挙げて都会に出て賃金労働者になったりしました。農村に与えた影響は大きく、秩父事件はその例としてよく知られています。
松方は官営工場の払い下げも進め、それによって政商が財閥に成長していきました。
こうして、松方デフレによって資本家層と労働者層の分離という資本主義経済の下地が作られることになりました。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。
政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。