薬子の変とは?分かりやすく解説〜なぜ起こった?結果は?勝者は?

はじめに

今回は薬子の変を分かりやすく解説していきたいと思います。

薬子の変とは?

薬子の変とは?

薬子の変とは、嵯峨天皇と同母兄の平城太上天皇(太上天皇とは譲位後の天皇、つまり上皇のことです)との間で、政治権力の対立が生じ、太上天皇が敗れた事件です。

なぜ?

平城太上天皇と嵯峨天皇

この事件の背景には平城太上天皇と嵯峨天皇の政治権力の対立があります

嵯峨天皇

平城天皇は即位時、体が弱く、在位3年で嵯峨天皇に皇位を譲り、自らは平城京の地に戻り太上天皇となりました。

しかしこの時、平城太上天皇が自分の皇子を皇太子に置き、権力を維持したため、太上天皇と天皇の二重権力構造が生じました。

都である平安京と旧京の平城京で、朝廷が2つあるかの状態となり「二所朝廷」とまでいわれていたとのことです。

藤原薬子

平城太上天皇には皇太子時代から寵愛する女性がいました。それが藤原式家の種継の娘、藤原薬子です。

彼女は絶大な寵愛を後ろ盾に権勢を振るっていました。

事変 

嵯峨天皇が病床についた折、平城太上天皇は天皇のいる平安京から平城京へ遷都の詔を出しました。

しかし、この動きは嵯峨天皇が征圧。軍勢を動員するため、東国を目指し伊勢に向かっていた平城太上天皇と薬子の一行は、嵯峨天皇側の坂上田村麻呂に止められました。

坂上田村麻呂

結果は?

薬子の自殺

この事変は平城太上天皇の主導ではなく、薬子とその兄の藤原仲成による平城重祚(ちょうそ、再び皇位につかせること)のもくろみがあったとみなされました。

嵯峨天皇は薬子と仲成の2人に責めを負わせて事変の収束を図り、薬子は毒を仰いで自殺、兄の仲成は射殺されました。

平城天皇は罰せられることはありませんでしたが、剃髪して出家し、その皇子の高岡親王は皇太子を退位させられることになりました。

藤原式家の没落

藤原家は藤原不比等の4人の子らが興した北家、南家、式家、京家の4つの家系に大別されますが、この事変によって藤原式家の没落は決定的になりました

藤原不比等

藤原北家の台頭

それに対し、北家が完全に優位に立つことになり、以後の藤原氏の専横につながることになりました。

参考文献

この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています(↓本のアマゾンリンク)。

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