目次
はじめに
今回は日露戦争の原因や結果などを分かりやすく解説していきます。
日露戦争を分かりやすく解説
原因は?
ロシアへの危機感
当時、日本は朝鮮、そして満州への進出を狙っていました。
そんな日本は、満州への侵略を展開していくロシアの動向に危機感を持っていました。
満韓交換論交渉の決裂
日本は日英同盟を締結して日露戦争に備えようとしました。
そうは言っても当時世界一の陸軍国ロシアとの戦争はリスクが大きかったのも事実。日本はロシアと交渉して、朝鮮とその沿岸はロシアの利益外とし、日本は満州におけるロシアの特殊利益を認めるとする満韓交換論を基調とした協約を結ぼうとしましたが、その交渉も決裂してしまいます。
国内に高まる開戦論
日本国内では、ロシアの満州からの撤兵不履行などで開戦論が高まっていきます。対露同志会が結成され、東京帝国大学教授らが対露強硬意見を主張すると、新聞もそれを大々的に報じて開戦世論を煽ります。
週刊『平民新聞』を創刊した幸徳秋水、堺利彦ら社会主義者やキリスト教信者内村鑑三らは非戦論を展開しましたが、熱狂的な主戦論の中では孤軍奮闘の状態でした。
結果は?
奇襲作戦
日本は奇襲作戦を決定。1904年2月8日、ロシアに宣戦布告する2日前に連合艦隊の主力が旅順港外でロシア艦隊を攻撃、同日、陸軍の先遣部隊が仁川に上陸を開始しました。
同年8月、ロシアが近代的要塞を築いていた旅順への総攻撃を開始しましたが、死傷者1万5千人という大損害を出して失敗に終わります。
旅順占領・奉天会戦
遼陽の戦いではロシア軍は後退しましたが、双方とも2万名以上の死傷者が出ました。
こうして日本軍は旅順を占領、1905年3月の奉天会戦では日露両軍合わせて56万人にも及ぶ兵士が対峙し、日本軍は7万人、ロシア軍は6万人の死傷者が出ました。
日本にとってこれ以上の戦争継続は、もはや軍事的にも戦費の面でも限界でした。
ロシアバルチック艦隊と連合艦隊
同年5月、東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア海軍の主力バルチック艦隊と日本海で開戦を繰り広げ、圧倒的な勝利を収めました。
条約は?
日本海の海戦後、日本はあまりかの仲介で講和を持ちかけ、ポーツマスで講和会議が開かれました。最終的にロシアが朝鮮に対する日本の優越権を承認し、旅順・大連んの租借権と長春以南の鉄道などを日本に譲渡、南樺太(サハリン)の割譲などの内容でポーツマス条約が調印されました。
得られなかった賠償金・日比谷焼き討ち事件
日本は大きな犠牲を払ったのに賠償金が得られなかったため、国内では講和反対の主張が盛んになり、各新聞も講和反対を掲げました。
条約調印の日、東京の日比谷で開催された講和問題同志連合会の大会は講和条約破棄を決議し、参加者の一部が暴徒化、内務大臣邸や警察署、交番などを焼き討ちにする日比谷焼討ち事件が起こりました。
強国の一員へ
日露戦争は日露双方に大きな犠牲をともなう戦争でしたが、日本の朝鮮支配は国際的な承認を受け、朝鮮の植民地化を本格的に推し進めることになりました。また、日本は満州にも勢力を拡大し、アジアにおける強国の一員になっていきます。
参考文献
この記事は『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365【歴史篇】』(小和田哲男監修)を参考にしています
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政治・経済・文化・信仰・争いなど、様々な面から日本史にアプローチ、簡潔で分かりやすい解説が魅力的です。大人の日本史の学び直しにはもちろん、受験生の知識の整理の読みものにもピッタリです。